とあるギークのシャウトブログ

心の叫びを綴ります。

なぜレイシストという言葉は危険なのか

先日、次のような記事が公開された。

レイシストの脳はどのように機能するのか? « WIRED.jp

記事の内容は怪しげではあるもののさておき、このタイトルの付け方はどうかと思った。

このタイトルを見てあなたはどう感じるだろうか?あたかも「レイシスト(人種差別主義者)」という特殊なカテゴリの人たちの脳の動きが特別なものかも知れないと思わないだろうか?ちなみに記事の内容は一般人を対象としたものであり、何らかの方法でレイシストを選別したうえで実験を行ったものではないが、このタイトルは必要以上にセンセーショナルな印象を与える。

日本語の記事だけこのようなタイトルなのだろうか?と思い原文をあたってみた。イタリア語の記事のようであるが、私はイタリア語は読めないので、Google翻訳で見たところ、やはり原文のタイトルにもレイシストという単語が含まれているので、原文からして扇情的なタイトルを意図したものなのだろう。

なぜこのようなタイトルにしたのだろうか。記事の内容に即したタイトルを選ばなかったのはなぜか。レイシストというキーワードを使ったほうがPVを稼げると判断したのだろうか。だとしたら、WIREDがレイシストという単語は差別的な表現を用いたことに対して、個人的に遺憾の意を表したい。 

レイシストとはどのような人のことを指すのだろうか。レイシストという単語自体は様々なブログ記事やメディアの言論等で目にする単語であるが、人種に基づいて他社を差別あるいは排斥するような主義主張を持った人々というと、なんだかとても異常な考えの持ち主を連想しないだろうか。

あなたは一切の差別をしたことがないか?

そう聞かれて「はい」と言えるひとは世の中にどれだけ居るだろう。逆に「はい」と答える人は、自分の中にある差別的な感情に気づいてないだけなのかも知れない。

差別という感情は我々誰しも持っている。他者を区別し、好意を抱いたり嫌悪したりという感情は、より良い人生を送る、あるいは危険を避けるという上で必要な機能である。過去の苦い経験から、ある属性を持った人に対して苦手意識が芽生えるといったこともあるだろう。オタク、キモメン、ハゲ、デブ、ババア、スイーツ、ヒョロガリ等々、世界は差別的な用語や考えであふれている。我々が普段身だしなみに気をつかい、小奇麗な格好をしようとするのも、他人から差別されないようにするためでもある。

差別的な感情は、それが自身の内にあるだけであれば何も問題はない。我々は差別的な考えが行動として表面化しないよう、うまく折り合いをつけて付き合っているだけである。何かの拍子にうっかり言動に表われてしまうと、他人を傷つけることになってしまう。だが、レイシストという言葉で他人にレッテルを貼ってしまうと、あたかもレイシストというものが特別なカテゴリの人だという誤った印象を受けてしまう。その結果、自分の中の差別的感情に気づくことができず、差別的な言動が表面化することになるだろう。

レイシストというのは特別な存在ではなく、みんなレイシストになる可能性があるという認識を持つことは大事である。「レイシスト」という特別な「悪い」存在がいるように考えること自体、「差別」であると言える。レイシストとはなんと矛盾した言葉であろうか!

レイシスト」を批判する言論には要注意である。世の中には国や人種等々によって様々な対立が起きているが、対立する考えを持った人たちをひとくくりに「レイシスト」呼ばわりする言論が跋扈しているからである。「レイシスト」という単語で非難している相手は、単に立場が異なる、あるいは考えが違う人々だというケースが非常に多い。当然だが、思想や宗教によって人を差別するのも間違いである。自分と違った考えを持つからと言ってレイシスト呼ばわりするのは言語道断だ。

本当に差別を無くしたかったら、「レイシスト」というレッテルを使って他者を非難しないことだ。いくらレッテルを貼ったところで差別はなくならない。それどころか、言葉による応酬が加熱して、返って差別は増えてしまう。 

改めて言うまでもないが、どのような思想を持つかは個人の自由であり、尊重されるべき権利である。特定の思想を持った人を差別的なレッテルで非難するのではなく、差別行為そのものにスポットを当てて批判すべきだ。そして何よりも自分が差別的な言動を慎むよう心がけなければならない。誰しもそのような言動をゼロにすることは出来ないだろうが、努力無くして改善は無いのである。

誰かをレイシストと呼ぶのはよそう。

レイシストは何か特別な悪い存在ではない。誰しもそうなる可能性がある。そう認識することが差別をなくすための第一歩であると思う。